こんにちは。高岡氏です。
インターネットは燃えているか―――
なんてことを言わなくても毎日燃えているのがインターネットの世界。ホロライブの潤羽るしあちゃんの炎上も記憶に新しいところです。本人の心の傷は相当深いものになったと思うので、じっくり休んで復帰してもらいたいものです。
さて、別に今に始まったことではないのですが、
正直、犯した罪に対してあまりにも社会的制裁が大きすぎるのがネット炎上の特徴であるといえます。
ちょっとした失言やミスのせいで過去のあることないことまで掘り起こされるのは明らかにやりすぎですよねえ。
どうしてこんなことが起きてしまうのかと考えたとき、タイトルの通り人類が自らに期待しすぎなんじゃないのかなー、と個人的には思ったのです。
いじめや差別、病気なんかは確かに無くなることが理想だと思います。でも絶対に無くすことなんて不可能ですよね。自覚は無くとも炎上した人に対して過剰な制裁を加えるのも立派ないじめです。罪を犯した人になら何をやってもいいと考えている人も多いですよね。結局、人間は誰しも自分の中にいじめっ子、差別主義者を飼っているのです。
ところで私、「民度」って言葉が本当に嫌いなんですよね。
あれって自らは優れているという前提に立った言葉じゃないですか。いやいやそんなことは無いぞと。インターネット君が我々に教えてくれたのは、
誰でも被害者になり得るし、加害者にもなり得る
ということです。「民度が良い」とされる界隈はそもそも人(特にネット民)の目に触れる機会が少ないか、たまたま表立った大きな事件が無いだけで、基本的に人間の集団に争いが生まれないわけが無いんです。人間に本来優劣なんてものはなくて、「そう思われるもの」が形成されるのはたまたま周囲の環境に恵まれていたというだけの話だと思います。
そういうわけなので、
「差別やいじめをなくそう!」に対する一番の答えは
人類を消滅させること
に尽きます。
「いじめや差別を行っている人に制裁を加えるより、まずは元を断つのが大事」という考えは正解なようで不正解なのであって、本当に必要なことは
人間の悪意を人間そのものの特性として素直に受け入れて、「我々はそもそもやらかす生き物だ」ということを自覚して生きる
ことではないでしょうか。
例えば猟奇殺人を行った犯人に対して「人間の所業じゃない」なんて言い回しをしますが、むしろ人間が悪意を持っているからできることなんです。人間でなければ普通に食っておしまいですから。
別に悪意を理解しろとは言いません。ですが、「自分もそうなり得るかもしれない」という視座があれば、ラインを超えた中傷がいずれ自分にも返ってくるかもしれないと踏みとどまることが出来るのではないかと思います。
それに悪意は必ずしも良くない結果ばかり生み出すわけではありません。技術や医療の進歩だって、「嫉妬」や「憎悪」から生まれたものも多いと思います。「他人を出し抜いてやろう」という感情が無ければ競争なんて生まれませんからね。
だから「悪意のない世界にしてほしい」ともしもボックスに話しかけたが最後、言葉もテクノロジーも存在しない、原初的な生活を行わなければならなくなってしまうでしょう。というかそもそも人間が存在していたかどうかすら怪しいと思います。
「我々はみな善でなければならない」という考えは、インターネットの登場により既に破綻してしまっています。互いに期待をすればするほど、しょうもないやらかし1つで一気に失望され大炎上してしまう現代。もはや善人の皮をかぶり続けるのは不可能といっても良い時代。
「誰もが持つ悪意とどう付き合っていくか」
これこそが今の人類にとって最大の課題ではないでしょうか。
皆が生きやすい世の中になるといいですね。
ではでは。